本尊八字文殊菩薩像

鎌倉時代 重要文化財

般若経を説いた智恵の菩薩。後醍醐天皇の御願仏として願主文観上人、仏師康俊・康成、施主藤原(伊賀)兼光らによって造顕される。もと経堂の秘仏であったが、現本堂再建と同時に御開帳された。
 


 

不動明王坐像

江戸時代

右手に剣を握り、左手に索を執り、火焔光背を負い、須弥壇に近い形式につくられた瑟々座(しつしつざ)に坐した姿である。  内に慈悲を秘め、外に忿怒の相を示し悪に対する怒りと力強い仏の救いを表現している。
 


 

弘法大師像

江戸時代

弘法大師空海。平安初期の僧。延暦14年(795)に東大寺戒壇において具足戒を受け比丘となる。唐に留学して恵果阿闍梨より真言密教を相承し日本に持ち帰った。真言宗の宗祖とされる。
 


 

持国天

江戸時代

須弥山の第四層の賢上城に住み、東方の守護を司り、他の三州を兼ね守るため持国という。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、刀や宝珠などを持つ
 


 

増長天

江戸時代

須弥山の中腹南方に住し南方世界を守護する。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、鉾・刀などを持つ。赤の武神。
 


 

広目天

江戸時代

須弥山の中腹西方に住し、西方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、筆、巻子あるいは索などをもつ。
 


 

多聞天

江戸時代

毘沙門天の別称。四天王の一つとする場合、多聞天と称する。原語は「広く名の聞こえた」と意される。
 


 

興正菩薩 叡尊上人

平成の模刻

真言律宗の宗祖。鎌倉期の僧。興福寺の学侶の子として大和国に生まれる。1217年(建保5年)17歳の時、醍醐寺で出家する。1234年(文暦元)真言密教の行者が多く魔道に堕ちていることに疑問を抱き戒律の復興を志す。1236年(嘉禎2年)に東大寺法華堂で唐招提寺の覚盛らと共に自誓受戒をし比丘となる。戒律の普及に努めるとともに、弱者救済にも尽力した。
 


 

賓頭盧尊者

賓頭盧尊者は十六羅漢のお一人で、インドから西方に多くの弟子を従えていた。身体の悪い部分を撫でると治るという信仰がある。
 


 

唐櫃

「般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を のがれわびけむ 皇子しおもほゆ」森鴎外
大塔宮が幕府軍軍勢に追われて般若寺へ逃げ込んだ時、この唐櫃に身を隠し、経を被り難を逃れたとされる。
元弘元年(1331年)8月、「元弘の変」が起こり、後醍醐天皇が籠城をされると、大塔宮護良親王も参戦される。幕府の大軍に攻められ笠置落城後、宮は般若寺に潜伏された。
 


 

本堂

江戸時代 県文化財

戦国時代、旧金堂が焼けたあと寛文7年(1667年)妙寂院高任・妙光院高栄が勧進して再建した。屋根は入母屋造りで外陣は吹き放しとする古様の形式を残す。
 


 

楼門

鎌倉時代 国宝

真言律の宗祖、叡尊上人らによる鎌倉時代再興伽藍(文永4年)の廻廊の西門であった。正門は南大門で中大門であったが戦国の兵火で失われ、寺中を貫く京街道に面した楼門のみが守られた。建築様式は和洋様に天竺様(大仏様・だいぶつよう)が取り入れられ美しく軽快な屋根の反りを見せる。楼門遺構は日本最古の作例である。近年は老朽化しており早期修繕がが望まれる為、勧進をしている。
 


 

一切経蔵

鎌倉時代 重要文化財

一切経を収納する蔵である。 大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ危難を逃れられたのはこの経蔵であった。
 


 

十三重石宝塔

鎌倉時代 重要文化財

聖武天皇御創建を伝えるが、現在の塔は観良房良恵上人が勧進し宋人も伊行末(いぎょうまつ)、息子伊行吉(いぎょうきち)らの手で建長5年(1253年)に創建された。塔には顕教四方仏が掘られている。昭和39年に解体修理され、その際に塔内より多数の納入宝物が発見された。聖武天皇所縁の金銅製阿弥陀如来立像も発見され、現在は秘仏特別公開期間のみ公開される。同時に塔内納入宝物も公開される。
 
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笠塔婆

鎌倉時代 重要文化財

石塔を創建した宋人石工伊行吉(いぎょうきち)が弘長元年(1261年)に父伊行末(いぎょうまつ)の壱週忌にあたり、父母の供養の為に建立された。鎌倉期の東大寺再建に携わった伊行末の事績が知られる貴重な史料でもある。
 


 

般若寺型石灯籠

鎌倉時代

別名、文殊型ともいう名灯篭。
 


 

西国三十三所観音石仏

江戸時代

元禄15年(1702年)山城国北稲八間の寺島氏が病気平癒の御礼に奉納された。